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射界
2018年9月17日号 射界
2018年9月24日
五味康祐という作家がいた。若い人には馴染みはないが、団塊世代の人には記憶があろう。剣豪小説家として人気があり、なかでも『二人の武蔵』は秀作の一つに挙げられる。若き日の宮本武蔵が太刀を腰に落として何度も何度も池や沼に飛び込んで修業する姿が描かれている。独り静かにである。
▲武蔵は顔から落ちる瞬間、鏡のような水面に自分の姿が映る。武蔵は刀を抜いて影を斬ろうとする。当然ながら影もまた、実物の武蔵を斬ろうとする。影と実物、二つの刀は常に水面で交わり、どちらが早いか遅いかが判定しがたい。ほぼ同時だ。それでも武蔵は影が斬りかかる前に影を斬るべく水面に飛び込みを繰り返す。鬼気迫る場面を巧みな筆致で描く。
▲常識的な物理の原則に従えばムダな行為ともいえる。愚かな挑戦と笑い飛ばす人もいるだろう。ナン万回試みたとしても叶わないムダな行為かも知れない。水面に映る自分の姿を一瞬早く斬れる日が、いつか来ると信じる武蔵は目的が叶えられなくても、一見ムダと思える修業を通じて、なにがしかの極意を会得したうえで、新しい秘技に磨きを掛けるだろう。
▲作家の宮部みゆきさんも、自作『火車』(新潮文庫刊)の中で蛇の脱皮について、「一生懸命、何度も何度も脱皮しているうちにいつか足が生えてくるからなんですってさ」と。世の中、色んな修業があるが各自それぞれが信じる方法で腕を磨いている。初めから無理を承知で脱皮を繰り返す蛇ですら脱皮を続ける。きっと刻み深い何かを会得できたと信じよう。
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